昔、まだ若かった頃、親とか、大人から、、、「お前この先どうするつもりだ!」とよく言われました。中卒で、定職に就かない、あげくの果てに格闘技で食うとか言ってる。就職してもすぐクビ。これが自分の子供なら、だれでも将来を心配するでしょうね。
私のことをご存知な方や、本などを読んでくださった方は、私がろくでもない若い衆だったことを知っておられると思います。でもさ、、、
不思議と、自分はべつだん将来に対して、何の心配もしてなかったの。
「仕事しなければ食べていけないのではないだろうか?」
とか、
「こんなタラタラ遊びのような人生を送って、後で困らないだろうか?」
とか、、、
そんなこと、考えたこともなかった。
・・・
というか、考えたことはあるけど、私にはひとつの「切り札」があったのです。
もし将来、食うに困ったりしたら、、、
「西成でも行って、日雇いをやればいい」
と本気で思ってた。
「借金作ろうが(実際はサラ金も貸してくれなかったけど)、誰かに追われようが、西成に逃げ込んだらなんとか食えるだろう」そう思っていたのです。
そうすれば何とかなるだろう。だから、少々何がどうなっても、オレは困らない。そう心から思えること、、、
それが切り札だったのです。
・・・
で、この切り札は、大人になっても続きます。
20年前、初めて独立する際も、
「やってみて、アカンかったら、西成行ったればいいわ」
とか、
「マニラのスラムでも行けば何とかなるやろ」
なんて思ったりしてました。
まあ、年齢が経つにつれ、多少選択肢が増え、国際的になったようですね。
・・・
こんな話があります。実話です。
昔、マニラで豪遊していた、ある日本人がいました。名前は伏せます。
フィリピン人の横っ面を札束で叩き(フィリピン人にビンタをするのは、足で踏みつけるよりひどく嫌われる)、彼らを人とも思わない人間だったそうです。その日本人は、ビジネスで失敗し、多額の借金を作り、マニラへ逃げました。
彼が札束で横っ面をはたいていた彼の専属キャディーが、彼を見るに見かねて、家に住ませ、毎日の生活の面倒を見てたようです。
そのキャディーは、フィリピノホスピタリティという、困った人間を放っておけない、おもてなしの心を持っていました。
彼は、スラムの片隅で、キャディーに世話になりながら、二度と戻ることのない日本を思い続けたそうです(その彼がまだ生きているかどうかは私は知りませんが)。
そういう話を聞いたりして、、、
「おれも、そういった国へ逃げればいい。とことんまで落ちても、何とかなるだろう」
そう思っていました。
・・・
何かのチャレンジをするたび、また、人生の分岐点においてしばしば、この切り札を使いました。
お陰で、その場その場において、恐怖心を減らし、必要なチャレンジができたのだと思います。
今も、そうです。
いま、私は、将来を心配していた親や周りの大人たちの想像を超える人生を、偶然にも手に入れることができました。私にとって、考えもできなかった、過分な人生です。
そうなった現在でも、私の心の中には、あの頃と同じように「切り札」があります。
さすがに東南アジアのスラムに逃げる必要はなさそうですが、、、
こう考えています。
「大丈夫。心配すんな。
もし、最悪のことになっても、、、
最初に戻るだけや」
最初、私は何も持っていなかった。
そこに戻るだけ。
なんちゃない。
実際に口にも出して、自分自身に言い聞かせています。
・・・
何かにチャレンジしようと思って、躊躇している人がいたとしたら、こう伝えてあげたい。
大丈夫だよ。
何も怖くはない、最初に戻るだけじゃん。
どうしてもダメだったら、、、
マニラのスラムでも行けばいいよ。
チャレンジ、怖がらずに、やっていこうね。
・・・
写真は、タイのカオサンロード。
こんなとこ行ったから、こういう記事を書く気になっちゃった。
ザ・ビーチという映画で、デカプリオさんが泊まっていた安ホテルの場所。バックパッカーの聖地だよ。25年以上前、ムエタイのトレーニングで初めて行った頃は、ひどい所だったような記憶がある。今は、観光客でいっぱい。そんなに怖いところではないよ。薬の販売者と使用者が多いくらいかな。
ここはパッタイという焼きそばの屋台が多いんだよ。空が綺麗だね。
ところでさ、やっぱりさ、うーん、あえてタイ語で言うと、チャムームアンガッティアム。(鼻がニンニクに似ている)
私のことをご存知な方や、本などを読んでくださった方は、私がろくでもない若い衆だったことを知っておられると思います。でもさ、、、
不思議と、自分はべつだん将来に対して、何の心配もしてなかったの。
「仕事しなければ食べていけないのではないだろうか?」
とか、
「こんなタラタラ遊びのような人生を送って、後で困らないだろうか?」
とか、、、
そんなこと、考えたこともなかった。
・・・
というか、考えたことはあるけど、私にはひとつの「切り札」があったのです。
もし将来、食うに困ったりしたら、、、
「西成でも行って、日雇いをやればいい」
と本気で思ってた。
「借金作ろうが(実際はサラ金も貸してくれなかったけど)、誰かに追われようが、西成に逃げ込んだらなんとか食えるだろう」そう思っていたのです。
そうすれば何とかなるだろう。だから、少々何がどうなっても、オレは困らない。そう心から思えること、、、
それが切り札だったのです。
・・・
で、この切り札は、大人になっても続きます。
20年前、初めて独立する際も、
「やってみて、アカンかったら、西成行ったればいいわ」
とか、
「マニラのスラムでも行けば何とかなるやろ」
なんて思ったりしてました。
まあ、年齢が経つにつれ、多少選択肢が増え、国際的になったようですね。
・・・
こんな話があります。実話です。
昔、マニラで豪遊していた、ある日本人がいました。名前は伏せます。
フィリピン人の横っ面を札束で叩き(フィリピン人にビンタをするのは、足で踏みつけるよりひどく嫌われる)、彼らを人とも思わない人間だったそうです。その日本人は、ビジネスで失敗し、多額の借金を作り、マニラへ逃げました。
彼が札束で横っ面をはたいていた彼の専属キャディーが、彼を見るに見かねて、家に住ませ、毎日の生活の面倒を見てたようです。
そのキャディーは、フィリピノホスピタリティという、困った人間を放っておけない、おもてなしの心を持っていました。
彼は、スラムの片隅で、キャディーに世話になりながら、二度と戻ることのない日本を思い続けたそうです(その彼がまだ生きているかどうかは私は知りませんが)。
そういう話を聞いたりして、、、
「おれも、そういった国へ逃げればいい。とことんまで落ちても、何とかなるだろう」
そう思っていました。
・・・
何かのチャレンジをするたび、また、人生の分岐点においてしばしば、この切り札を使いました。
お陰で、その場その場において、恐怖心を減らし、必要なチャレンジができたのだと思います。
今も、そうです。
いま、私は、将来を心配していた親や周りの大人たちの想像を超える人生を、偶然にも手に入れることができました。私にとって、考えもできなかった、過分な人生です。
そうなった現在でも、私の心の中には、あの頃と同じように「切り札」があります。
さすがに東南アジアのスラムに逃げる必要はなさそうですが、、、
こう考えています。
「大丈夫。心配すんな。
もし、最悪のことになっても、、、
最初に戻るだけや」
最初、私は何も持っていなかった。
そこに戻るだけ。
なんちゃない。
実際に口にも出して、自分自身に言い聞かせています。
・・・
何かにチャレンジしようと思って、躊躇している人がいたとしたら、こう伝えてあげたい。
大丈夫だよ。
何も怖くはない、最初に戻るだけじゃん。
どうしてもダメだったら、、、
マニラのスラムでも行けばいいよ。
チャレンジ、怖がらずに、やっていこうね。
・・・
写真は、タイのカオサンロード。
こんなとこ行ったから、こういう記事を書く気になっちゃった。
ザ・ビーチという映画で、デカプリオさんが泊まっていた安ホテルの場所。バックパッカーの聖地だよ。25年以上前、ムエタイのトレーニングで初めて行った頃は、ひどい所だったような記憶がある。今は、観光客でいっぱい。そんなに怖いところではないよ。薬の販売者と使用者が多いくらいかな。
ここはパッタイという焼きそばの屋台が多いんだよ。空が綺麗だね。
ところでさ、やっぱりさ、うーん、あえてタイ語で言うと、チャムームアンガッティアム。(鼻がニンニクに似ている)
廣田様
返信削除こんばんは!
その切り札、本当に素敵ですね!
その切り札に、
「与えるものは王者なり」「何でもコヤシ」があれば、
もう怖いものなしですよね!
更新、楽しみにしています!
すくえたすみさま、コメントありがとうございます!
削除「与えるものは・・・」「何でも・・・」
いつもしっかりと読みこんでくださってるのですね!
嬉しいです、ありがとうございます!
また是非覗いてくださいね!