2019年4月19日金曜日

戦争の話 No.0894

若い頃から、戦争の話を聞くのが好きだった。今日も長いっす。

私がまだ現場に入ったころ、まだ今から30年も前、多くの人夫さんは戦争経験者だった。


いろんな戦線の、しかも、実体験の話を直接聞く。それは決してドラマチックなものばかりではなく、地味ではあるけどその代わり、迫力のある話が多かった。


「そりゃ、怖かったよ。でも、俺たちが行かなかったら、この国どうなるの。お父さんやお母さん弟や妹たち、いったいどうなるの」


当時、まだ若く純粋だった彼らは、心から「この国を守りたい」と戦った。


・・・


是非を問う気はない。


私の知ってる中で、戦争の話を自慢げに話すクソ人間は、たった1人だった。


嫌われ者の人夫さん。


自分を、周りから怖がらせるために武勇伝として語っていた。


敵を殺して食べた、白人は白豚、黒人は黒豚。こうしてこのようにすれば人間は簡単に殺せる、現地の女性をこうして、ああして、、、云々。


・・・


私の経験上、


「俺は昔悪かったんだぜ!どうだ!俺は怖いだろう!ビビれ!」


みたいな話は、概ね嘘。
実際は大したことない。


(ちなみに現在でも、元本職は「俺は若い頃ブイブイで」とは言わない。こっそり隠すか、自虐ネタにするか、事実だけを淡々と話す)


武勇伝として、人殺しと人肉食を自慢げに話すそのクソ野郎の行ってた中国戦線の地域には、アメリカ兵は投入されてないことを他の人間から聞いた。白人、黒人ってさあ、ベトナム戦争かよ。


・・・


本題に戻りたい。


戦争の話を聞くのが好きだった。そして概ね、従軍した人の話が多かった。


でも、東京大空襲を経験した方の話を聞く機会があったんだ。


純粋に国を守ろうと戦った人の話と、また違った観点からのお話だった。


・・・


東京大空襲の日、自分の親と兄弟、八人の家族を亡くしたその方は、燃え盛る火の中、川に飛び込んだらしい。


父親と自分、2人だけが生き残った。


・・・


戦いに行った者。国に残り、虐殺行為に出会った者。


やはり、それによっても、戦争観は全く異なる。


ただ単に、家族を殺されただけなのだから。


・・・


その方は、


「自分には、新たに家族ができ、子供や孫ができ、多くの親戚ができた。もし、兄弟たちが生きていたなら、一体どれくらいの大家族になったろう。それが悔しくて仕方がない」


と、当時を嘆く。亡くした兄弟たちを、片時も忘れたことはないだろう。


70年以上経っても、その方にとっての戦争は、決して終わってないんだ。


・・・


その方の、訃報が届いた。


もっと話を聞きたかった。その方の思い出や悲しみや、そのつらさを、私自身の記憶に変えたかった。


また、そういった話を誰かにシェアできるのだから。


・・・


戦争は悲惨。戦いに行って散った方々、被災して亡くなった方々。


どちらにしても、普通に暮らしていれば、天寿をまっとうし、泣いたり笑ったり、好きな人と一緒になったり、美味しいもの食べたり、、、

できたんだ。


・・・


私は極右で、徴兵制度にも賛成。もし、開戦したら、自分も戦う。


しかし、戦争は反対だよ。


あんなの起こらないほうがいい。朝起きて、カレー食って、ジム行って、お酒飲んで、仲の良い大切な人たちと笑って暮らせる、そんな生活を、私だけでなく今の日本人は普通に持っている。


それと全く違う地獄がそこにある。

誰がそんなの望むかよ。


・・・


戦争を起こそうとする勢力を「抑えるための力」は必要だと思う。


それによって初めて、平和が訪れるのだと思う。冷戦時代の米ソだよね。


これは私の考え方であり、例えば9条信者などは違う考え方だろう。白旗を上げることこそ、平和を勝ち取る術だと思っているのかもしれない。


しかし、各々別のアプローチながら、戦争を避けようというのは、みな同じなのではないだろうか。


中共の工作員は別として。


・・・


その方の訃報により、これで実体験として私に戦争を語ってくれる知人は、全ていなくなった。


あとは、当時若く「空が赤かった、怖かった」だけしか覚えていない人が多い。


もっと話をたくさん聞けばよかったなあ。


・・・


その方のご冥福を心よりお祈り申し上げます。我々残された日本人は、立場や考え方は違えど、二度と戦争を繰り返さないよう努力しております。


どうぞ、あなた様の末裔の、日本人たちを見守ってくださいませ。


・・・


ここまで書いて、葬儀会場についた。今、帰りの新幹線でこの残りを書いている。


・・・


会場の片隅に、74年前の、セロハンテープで貼り直した写真が飾ってあった。


昭和20年の3月。ひな祭りの写真。父母、六人の兄弟、そして、屏風に大きなひな壇。裕福な家だったのだろう。1歳か2歳か?6人目の、末娘のひな祭りを祝った姿。幸せそうに、家族皆が並んでいる。


この写真を撮った、たった一周間後の3月10日、ここに写った家族たちは、この写真と、父と子のたった2人を残して、燃え盛る炎の中、帰らぬ人となった。


「私だけが生き残ってしまった。兄弟たちに申し訳ない」


が口癖だったと、お身内から聞いた。


今頃は兄弟たちと一緒にいるのだろうか。会えるまでに、74年。長い間、寂しかったね。

安らかにお眠りください。

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